古川鉄治郎とは?


古川鉄治郎の生家(昭和10年代に撮影の写真
中央は父古川半六、前は滋賀県下初のコンクリート舗装道路、平成18年7月国登録有形文化財)

祖父古川鉄治郎は、明治11(1878)年2月12日、古川半六の次男として滋賀県犬上郡豊郷村四十九院で生まれた。家は古くから油屋をやっていた。明治20(1887)年4月に「尋常科至熟学校」(豊郷尋常小学校の前身)を満9歳(当時小学校は4年生まで)で卒業した。同年12月に「至熟尋常小学校」が新築落成開校したが、この新校舎には通学できずにいた。

この頃、6歳年上の長兄安吉(1912年米国で客死)は、彦根中学から京都第三高等学校に入学、さらに本人は大学への進学を希望していたが、父半六より「油屋には学問はいらぬ」と言われ進学をあきらめざるを得ず、家の敷居は跨がず、正規の職をもたずに大阪や豊郷でぶらぶらしていたようだ。

一方、鉄治郎は、明治22(1889)年、満11歳のときに伯父の初代伊藤忠兵衛のもとに書生(丁稚見習い)として預けられたが、「泊雲塾」に通わせてもらい、2年ほど勉学(漢籍、英語、簿記)し、明治24(1891)年5月に伊藤本店(主人:伊藤忠兵衛、支配人:田附源兵衛)の中年者(丁稚の上)として入店した。

明治30年撮影の古川鉄治郎(19歳)、
中年者(丁稚の上)伊藤本店支配人

明治35年撮影の写真 古川鉄治郎(24歳、上から2列目、右から2人目)

鉄治郎が25歳のときに初代伊藤忠兵衛は亡くなり、伊藤精一(明治29年豊郷尋常小学校を卒業、八幡商業に進学)が家督相続により2代目の伊藤忠兵衛となり、大正3(1914)年には伊藤合名会社を設立した。このとき古川鉄治郎は本店支配人(満36歳)となった。

その後、大正7年に伊藤忠商事株式会社(社長:伊藤忠兵衛)と株式会社伊藤忠商店(社長:伊藤忠三)のそれぞれに分離独立した際には、株式会社伊藤忠商店の取締役・支配人(満40歳)となり、大正10(1921)年に株式会社丸紅商店(社長:伊藤長兵衛)が設立された際には、専務取締役(満43歳)として会社を引っ張っていったのである。

社員総数650名となった昭和6(1931)年12月、伊藤長兵衛は古川鉄治郎の後事を託し、社長を辞任、副社長の伊藤忠三は会長に就任、同時に両名は代表取締役を辞任した。これによって、代表取締役は、専務古川の一人となるが、社長空席となったのは、前記両名の懇望にもかかわらず、古川が社長就任を拒んだからである。社長には伊藤家の主人が座るべきとの理由からであり、昭和15(1940)年1月19日に逝去するまで専務で通した。丸紅は、昭和15年5月(半期)には、過去最高の売上、利益を記録し、売上1億3656万円、利益314万円、配当15%、社員総数は1800名を数えた。

さて、古川鉄治郎の生涯の一大事業は豊郷小学校をはじめとする当時の豊郷村への寄付であった。小学校の土地と建物を合わせて43万円(当時の豊郷村年間予算の10倍以上)との記録が残っているが、その他に学校の教育設備、学校や病院の職員住宅等を合わせると60万円にも及んだと言われている。この寄付のうち、校舎と講堂は、豊郷村へのもの(郷土に対する報恩)、そして図書館は、(財)済美会へのもの(初代伊藤忠兵衛に対する報恩、図書館の正面に初代忠兵衛翁のレリーフがある)であった。

昭和3年撮影の写真 パリの飛行場にて、
古川鉄治郎(中央)と実弟古川義三(右)

昭和3(1928)年、鉄治郎は、実弟義三とともに約7ヶ月間の欧米視察旅行に出かける。このとき見た欧米の科学技術レベルの高さに対する驚愕の念は、学校教育の必要性を痛感させ、「国運の進展は普通教育の振興に待つところ頗る大なり・・・・」と定礎銘に記している。またスタンフォード大学を初めとするアメリカ人の寄附と「企業利益の社会還元」の精神は、近江商人の「三方よし」の精神とも相容れ、当時の最新設備を整えた豊郷小学校の寄附を決意させるきっかけになったのではなかろうか。

昭和10(1935)年5月、鉄治郎は、豊郷村小学校の寄付を申し出、村議会は満場一致でこれを受け入れた。それまでなにかともめごとの多かった村もこれを機に一つにまとまり、小学校建設に向かって一路邁進した。こうして昭和12(1937)年5月30日、村中央への豊郷尋常小学校への移転新築がなった。

昭和7年撮影の古川鉄治郎(54歳)、
㈱丸紅商店・代表取締役専務(社長空席)

昭和3年撮影の写真 米国バークレーにて、古川鉄治郎(中央)と実弟古川義三(右)と古川正三(左)

定礎銘「・・・・予年少(11歳)にして郷を出て、齢耳順(60歳)になんなんとして僅かにその意を得たり。すなわちここに父半六の意をつぎ、狭隘かつ腐朽に近き母校を村中央に移築してこれを整備し、もって郷土教育振興に資しかつは郷党百年の和平を図らんとす・・・・」、これには、郷土の子ども・青年に懸ける熱い想いが込められている。

昭和16(1941)12月には、太平洋戦争が勃発し、児童のシンボルである「ウサギとカメ」の装飾品、古川鉄治郎の胸像、ステーム暖房装置その他もろもろの金属製の備品は供出の憂き目をみたのだった。

昭和20年8月15日、太平洋戦争が終戦、戦後の新しい時代を迎えた。古川鉄治郎の郷土豊郷に懸ける熱い想いは戦前、戦後を通じて、学校の先生と生徒・卒業生および町民たちに引き継がれ、町の宝として大切にされ、愛され親しまれ続けてきた。

因みに、「古川鉄治郎の胸像」は、落成20周年を記念し村民の寄附によって昭和32年に、また「ウサギとカメ」は、現場監督だった神谷新一氏(竹中工務店の元副社長)によって昭和26年に復元した。そして、平成21年に校舎群はリニューアル化され、「白亜の殿堂」として再びもとの輝きを放つようになったことは嬉しいことである。

古川博康
『豊郷小学校旧校舎群ガイドブック』(豊郷町発行)より

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